オーズのオタクは渡部秀を盾にするな
オーズについてお気持ち表明をさせてもらう
「復活のコアメダル」が燃えている
たくさんのお気持ち表明が投稿されているのは知っているし、たくさん目を通した
おそらくファンが喜ぶ内容ではなかったのだろう
自分はまだ視聴できていないので、内容について言及するつもりはない
ただ、それらの投稿に少しひっかかる表現が含まれているのが気になってしまう
「渡部秀がこの結末を望んだとは思えない」
「渡部秀の思いをないがしろにしている」
「渡部秀にとってオーズが重荷になっているはずがない」
「渡部秀にオーズを返せ」
「渡部秀に合わせる顔がない」
おい!あんたたちは渡部秀の何なんだ!
ずいぶん好き勝手言ってくれるな!
そもそも発案者は渡部秀だって話じゃないか
あんたたちは渡部秀に理想を押し付けてるだけなんじゃないのか??
「一生火野映司でいてくれて、オタクが望むオーズを提供し続けてくれる」渡部秀を望んでいるだけじゃないのか??
だから自分の不満なのに渡部秀の名前を使って吐き出しているだけなんじゃないのか??
別に私も渡部秀がどんな人間なのかは知らない
ただ応援しているだけだ
だけどあんたたちにわかるって言うのか!?
あんたたちもオーズのオタクでしかないだろう
「オーズに縛られているようには見えなかった」とか言いながらオタクが渡部秀をオーズに縛りつけてどうする
結末に納得いかないのかもしれないけど
オタク一同やキャストの思いを勝手に代弁するテイで好き勝手言うなよ
「俺は気に食わない」それでいいだろ
なにかを批判するときくらい正々堂々戦えよ
バーカ!😢
楽しくない夏休み
夏休みに入った。
予定はないので毎日勉強する計画を立てた。
でもやっぱりひとりで家にいると暇になってしまう。
それなら気分転換に外出すればいいが、外出するにはお金がかかる。
お金がないからどこにも行けない。
近所を散歩したってなにもない。
寄り道をしようにもお金がないので何もできない。
お金がないから何もできない。
そうなると自宅でネットや映画をみて時間をつぶすしかない。
これがつらい。
たくさんの情報量が頭に流れ込んでくるので精神がすり減る。
お友達と遊びたくても遊べないのだ。
お金がないから。
バイトも落ちたし。
生活にメリハリをつけたくても付けられないのだ。
夏休みを楽しむにはお金が必要だ。
今年の8月は苦しい1ヶ月になりそうだ。
にんげん ばんじ さいおう が うま
「石子と羽男」2話を観ました。
ショッピングモールにて法律相談を開催した弁護士の羽根岡とパラリーガルの石田のもとに、「息子が無断でソシャゲに大量課金してしまった」という女性から相談が舞い込む。依頼者の息子は中学受験を控えていたが、自宅や学習塾で猛勉強をする合間にスマホゲームにハマり、依頼者のクレジットカードを無断で使用して課金していた。未成年が親に無断で課金した場合、運営会社からの返金が認められることから羽根岡は依頼を受け、相手企業の顧問弁護士と対峙する。しかし、依頼者の息子はゲームを開始する際に「18歳以上である」と偽っていたと相手は主張し、裁判を持ちかけられてしまう。さらに、依頼者の息子は件のソシャゲに週2~3回しかログインしていないことが発覚。まるでゲームにのめりこんでいるとは思えないプレイ状況に疑問を持った羽根岡と石田がさらなる調査を進めていた矢先、依頼者の息子は心の内を吐露する。「俺、もう受験やめたい」…
今回のお話の序盤では「中学受験」「受験をやめたい子ども」と連続して登場したので、ついつい木村佳乃さん演じる依頼者が「毒親」や「教育ママ」だと判断してしまいました。
実際は、「中学受験に挑戦したい」という息子の意思を尊重し、塾の授業料を工面するためにダブルワークと家事を頑張りながら、女手一つで息子を育て上げる立派なお母さんでした。マジごめん。
息子はそんな母親を見て、「苦労をかけさせたくない」と考えたことから、受験をあきらめようとしていました。
そんな中、ソシャゲへの大量課金が原因で塾をやめさせられたという受験生の事例、未成年による無断での課金は返金対象になる、という記事をネットで見かけた息子が、母親に迷惑をかけず、なおかつ遠慮していることを悟られないように塾をやめるための一大作戦を計画した、というのが今回の真相でした。
母親は子を、子は母親を想うがゆえのすれ違いだったんですね。
終盤では、毎日孤食となってしまう息子のために、依頼者が料理をしながらおしゃべりする動画を撮影している場面、それを見ながら嬉しそうに食事をとる息子の場面がありました。めっちゃハートフル。心がポカポカすぎる。
一方で、受験をしたくても親にさせてもらえなかった学習塾の事務員も登場しました。
学習塾に通う子供たちに対し、「親ガチャ成功だ」と言っていました。
ちなみに、今回のお話では依頼者の息子による無断クレカ使用とは別に、第三者による依頼者のクレカ不正使用も発生していましたが、犯人は上記の事務員でした。
動機は、親ガチャに成功した子供と「ガチャの当たり」の親への嫌がらせでした。
羽根岡は「くっだらね」と一蹴していました。
ソシャゲガチャが親ガチャにつながるストーリーが良かったです。
少し前、「親ガチャ」は話題になりましたね。
なんJだの嫌儲だのの人間が適当を言っていたのが発祥かと思っていましたが、どうやら虐待サバイバー・毒親サバイバー界隈では有名な言葉だったみたいですね。
自己責任論がタブーとなりつつある現代で、運命論に振り切った考え方が台頭してきたんだなあと感じた覚えがあるようなないような。
もともとは、虐待を受けて育ったり毒親の元で育った人が、自責ややり場のない怒りによる苦しみから解き放たれるための言葉だったみたいです。
このような家庭で育った方々の心の痛みは計り知れませんが、「自分の親は悪い人だった」「自分は悪いことをしていない」と認識できることは、その人の苦しみを和らげ、前に進む力になるのではないかと勝手に想像しています。
同時に、「親ガチャ」という言葉は劇薬でもあると思います。
もともとは自分の過去によって前に進めなくなってしまった人たちが、次の一歩を踏み出すための道具として生み出された言葉でした。
しかし、この言葉が広く知れ渡ると同時に、この言葉が持つ「免罪性」という甘い蜜だけを求める人たちも増えました。
結果、いま世の中にある「親ガチャ」は、属性を現す言葉になってしまいました。
問題解決のための試行錯誤を放棄する言い訳になってしまいました。
ドラマの中でも石子さんが事務員の考えについて言及していました。
確かに、家庭の裕福さや親の教育方針は、子供の在り方に少なからず影響しますし、生まれた環境によって苦しい生き方を余儀なくされた人たちもたくさんいます。
その人たちは、努力したくてもできない、あるいは努力する力さえ奪われた境遇であるという事実は変わりません。
ですが、「当たりの親」は子供を想って一生懸命に頑張っています。
「親ガチャに成功した子供」も、自分の環境に感謝しながら思い描く将来のために頑張っています。
「親ガチャ」に代表されるこの手の運命論を安易に持ち出すことは、このような人たちの努力を否定することになります。
親や家庭の在り方は、子供の一生を左右するものですし、機能不全家族や虐待親の元で育った人たちには、十分なケアや保障が必要なのは明白です。
この人たちの苦しみや被害を矮小化するつもりは一切ありません。
正しい目的・用量を守ることが大切だなあと思いました。
そもそも、親と子のどちらにせよ、その人がどのような価値観や信念を持っていて、何を考えて行動しているのか、つまり人物像もまともにわかっていないのに、「善・悪」や「良・不良」かなんて判断できるわけがないですよね。
その人の一側面を見ただけで、その人のすべてを判断するのは無理です。
そもそも、人は良か不良かで分けられるほど単純じゃありません。
ソシャゲのキャラですら、育成方針や編成で能力の発揮の仕方が変わります。
なにより、どんなに弱くても育ててるうちに愛着がわきますね!
私はつい愛着のあるキャラを編成してしまうので、なかなか対人戦で勝てませんでした。
やっぱり人生は生まれ持ったもので簡単に決まるほど甘くないです。
頑張る元気がある人は試行錯誤してみましょ。ない人はゆっくり休んで自分大事にしましょ。
とりあえず思っていたことを書きなぐりました。
課題もやらず。
課題をサボってブログを書いている、というだけで一気に説得力がなくなりますね。
あなたがデータ通信量を消費してまで読んだのは、課題をサボってネットをやっている大学生のクソ記事だったということですね。
申し訳なさがこみ上げてきますね。
ちなみにクソ記事なのでオチもありません。
💩
おわり
ずっと気になっていること
日記とか作品の感想とかそういうものではないのですが、5年以上ずっともやもやと抱えていることがあるので、吐き出しがてら記事にします。
私は外に出るのが億劫です。
単純に家で過ごすのが好きというのもありますが、外に出るのがストレスだからです。
ストレスの原因は物理的なものではありません。
どうしても払拭できない思い込みがあるからです。
すれ違う人全員に視線を向けられているような感覚があります。
よく視線を向けられる部位は、顔、手元、足元です。
なので、前を向いて歩くことができません。怖いからです。
下を向いていても視線を感じます。
視線を感じて不安になると、周囲から聞こえた笑い声がすべて自分に向けられているように感じます。
また、会話の内容が断片的に耳に入ります。
内容は悪口です。
とっさに自分と結びつけてしまいます。
あとになって、はっとします。自分のことではないと気づきます。
気づくというより、自分に言い聞かせます。
他にも、自分の考えていることが周りにもれているような感覚があります。
周囲の人が私が考えていることに対してリアクションをとっているように感じます。
無意識に口に出しているのではと不安になり、必死で口をつぐみます。
それでもなくなりません。
これらが自分の思い込み、妄想であると頭ではわかっています。
視線を向けられたと感じて顔を上げると、その人はスマホを見て歩いていたこともあります。
聞こえた悪口に耳を傾けると、全く違う言葉だったこともあります。
誰かに相談すると「他人はそんなにあなたをみていない」と励ましてもらえます。
ネットで解決法を探すと、「自意識過剰を直せばいい」とでてきます。
自分自身にも「自意識過剰なだけだ」と言い聞かせます。
それでも不安や恐怖、惨めな思いをします。
実際に見えたり聞こえたりするからです。
何らかの症状なのではないかと疑いました。
ですが、今は外に出るのが億劫なだけで、外に出ることはできます。
学校にも行けます。アルバイトにも行けます。
日常生活に支障をきたしていません。
だから専門家には相談していません。
悩み始めたのは高校生の頃です。
学校の中で馬鹿にされたり、悪口を言われたりする場面が何回かありました。
また、私は課題も勉強もまともにしておらず、部活や人間関係もうまくいっていなかったため、自分を駄目な人間だと認識していました。
それからです。聞こえた悪口が自分に向けられたものなのか、聞こえたと思い込んでいるだけなのか、区別がつかなくなりました。
徐々に人から見られている感覚も生まれ始めました。
思考が読み取られている感覚が生まれたときは、自分の様子から考えていることがばれているのだと感じ、授業中は教室を出たくてたまりませんでした。
つらかったので、自分の世界に没頭しました。
自分の世界で生きているうちに、現実を生きる自分自身を見失うこともありました。
今は以前ほど苦しい思いはしていません。
ですが、いつまでたっても思い込みは消えません。
ずっと自分に自信を持てないままでいます。
さっきも触れましたが、これは私の自己愛の問題なのかもしれません。
いつまでたっても自分中心の思考から抜け出せない幼稚さが生んでいることなのかもしれません。
それでも、私にとっては実際に起こっていることです。
通りすがりの人の視線はこちらを向いて見えるし、自分への悪口も笑い声も聞こえます。口に出していない思考に対して、周囲の人は反応します。
だからどうというわけではありませんが、
どんな時でも、自分の悩みを馬鹿にしたりくだらないことだと考えたりせずに向き合おうと思います。
そして、今までこのことを打ち明けたとき、共感的に受け入れてくれた人を大切にし続けようと思います。
私の話に耳を傾けてくれてありがとう。
いつも救われています。
おわり
OMORI 雑感
こんにちは。
先日オモリを購入し、サニールートをクリアしました。
最近はちまちま引きこもりルートを進めています。
今日はサニールートの感想と考察をちょっと書きだそうかなと思っています。
思いっきりネタバレです。
クリア(サニールート)感想
前評判で「感情がぐちゃぐちゃになる」とは聞いていましたが、「そういうことだったのか…」と納得しました。
主人公が見て見ぬふりをしてきた過去や罪の意識と向き合う物語でしたが、主人公の心情を映し出す表現が秀逸でした。その感情をプレイヤーは追体験できるので、世界観に没入してしまいます。クリア後は余韻に浸ってしまいました。相当楽しめたと思います。
特に印象的だったのはラスボス戦です。サニーは記憶を隠してもなお自分自身を罰し続け、苦しんでいたことがここからわかりました。
自分を責め続けるというのは苦しいですよね。
マリの死の真相を打ち明けたことで、3人はサニーを憎むかもしれません。ですが、他者から罰せられることは、ある種サニーにとって救いになるのかな・・・となんとなく思いました。
きれいな終わり方だったと思います。あれはグッドエンドです。
ちょっと考察
「なにか」とヘルマリ
考察ってほどでもないですが、ちょくちょく「なにか」が現れていた理由についてです。
ストーリー内の描写から、「なにか」はツリーハウスに吊るされたマリの姿であることがわかります。また、その姿がサニーのトラウマとなり、ヘッドスペースや現実世界においてマリを想起させるような場面でフラッシュバックしていたことも推測できます。
しかし、サニーはあの事件の記憶を封じ込めたために当時の感情のみが呼び起され、「なにか」という実体があやふやな幻覚を見ていたんだろうと思います。
また、本作きってのホラー要素であるヘルマリですが、これもサニーのトラウマから生み出された存在だと解釈しています。
マリは首吊りの状態に置かれたため頚椎が脱臼し、遺体の首が伸びていたと考えられます。
サニーが葬儀などでマリの遺体と対面した際、その姿が首の長いヘルマリとなり記憶に刻まれたのではないかと考えました。
なのでグッドエンドを迎えたと同時にヘルマリもどっか行ったと思います。イェー。
マリの死因と家族
あの日マリは階段から転落した際に息途絶えたのか、バジルの提案を実行したことがとどめとなったのか、という点はプレイヤーの間でも意見が分かれるところみたいです。
私はどちらともいえないと考えています。どちらの可能性も否定できませんし、確証を持てる描写がないからです。
それよりもサニーは「自分が殺した」と認識していますし、死因の特定はこのゲームのストーリーとは別問題だと考えます。
また、サニーとバジルの偽装工作ですが、警察や両親にはバレていると考えます。
海外の司法は一切わかりませんが、過失致死と判断されたのかな・・と思います。
このことを受け、父親はサニーを憎んでいるのではないかと考えます。
ブラックキー取得後の亀裂(スペースボーイ船長のベッドだったかな・・・)に飛び込むと、タイヤが吊るされた木と「お前のような息子はいない」みたいなことを話す影(サニーの父親?)と遭遇します。
この空間はブラックスペースと思われるので、その場合は実際に体験した記憶、つまり事実であり、父親はサニーのもとを去ったと考えました。
母親に関してはわかりません。サニーを許したのか、サニーの犯行ではないと信じ込んだのか、当時の記憶を封じ込めたのか・・・。
オモリとサニー
あの事件の後、空想が得意だったサニーはホワイトスペースにひきこもりました。そこでは現実と向き合うことなく過ごすことができました。ですが、過去の記憶は消えることなく、彼は向き合うことを余儀なくされます。そこでサニーは、ホワイトスペースから繋がる広大なヘッドスペースを生み出しました。
このとき、サニーは「オモリ」という少年に成り代わって冒険します。オモリはいつも正しい行いをし、友達から信頼され、サニーが恋心を抱くオーブリーからは好意を持たれています。
これらのことから、オモリはサニーの理想の自分であることがわかります。
あの日からずっとヘッドスペースにひきこもっていたサニーは、いつしかオモリを自己と認識し、本来の自分を見て見ぬふりするようになったのではないかと考えます。
その後、サニーはケルに誘われて外出するようになりました。友達や町の人々と関わっていく中で、ばらばらになっても友達は友達だったことに気付き、サニーとして生きることが徐々にできるようになりました。
ここからだんだんとサニーとオモリは別の意思を持つ存在として分かれていったと考えられます。
ラストバトルは、過去の過ちと決着をつけて前に進みたいという意思(サニー)と罪悪感と向き合う心の痛みや友達を失い孤独になることへの恐怖(オモリ)の葛藤が描かれていたと解釈します。
また足したくなったら増えます!
おわり
赤くても青くてもりんご
多様性について、みんなどんな考えを持ってるんだろう、と考えることがある
私はその概念について、大学の講義で学ぶ機会があったからなんとなくは捉えているつもりだけど
よくわかってなくてついていけていない人も多いと思う
なんとなく価値観の画一化を迫られているみたいで抵抗がある人もいると思う
でも意外とシンプルな話だったりする
この世には「りんご」という果物が存在する
誰が何と言おうと、存在するという事実は揺るがない
そして、りんごにはいくつもの種類がある
これらも、存在するという事実は揺るがない
ここにおける「りんご」は、「多様性」にも置き換えられる
また、りんごの品種は人々の属性にも置き換えられる
女性、アフリカ系アメリカ人、キリスト教徒…
つまり、多様性は認めるとか作り出すとかそういう次元の話ではなく、すでに存在しているものといえるらしい
じゃあ、りんごは世界中の全員に好まれて食べられているかというと
そんなことはない
毎日食べるくらい好きな人もいれば、見るだけで気分が悪くなるくらい嫌いな人もいる
りんごは嫌いだけど、びわはよく食べる人もいる
そして、このような価値観が世の中に存在するという事実は揺るがない
これと同じように、世界中にはたくさんの価値観がある
例えば日本では、お笑いとして人を叩いたり蹴ったりする(もちろんプロ同士でケガしないようにするけど)
でも、アメリカではそれが「暴力」として非難される
つまり、日本のお笑い文化に違和感を持つ人が多いということ
「何かを受け入れられない」「何かに違和感がある」も多様性らしい
それなら、りんごが好きじゃない人はだめな人で、世界中の全員がりんごを好んで食べるようにならないといけないのかというと
そうはならない
バリバリ働くことに人生の価値を見出しても
いつも働いている夫に尽くすことがアイデンティティでも
どちらが正しくてどちらが間違っているなんてことにはならないし、かならずどちらかにならないといけないわけじゃない
違和感を覚えるということは、自分と相手に違いがあるということ
そういうときはどちらかに合わせるんじゃなくて、どういう違いがあるのか考えることが多様性の尊重らしい
でも、受け入れられないものは受け入れられないし、かといって自分の価値観をなかったことにするのは違うし
価値観が違う人とかかわりを持つのって難しいことかもしれない。。。
そういえば、りんごを見るだけで気分が悪くなる人は、どうしてそんなにりんごを食べたくないんだろう
話を聞くと、子供の頃はりんごが大好きで毎日食べてたとか
ある日、近所の無人販売所で買ったりんごを切ってみたら、中からたくさんの芋虫が出てきたことがあって、それから切る前のりんごが怖くなっちゃったらしい
だから、りんごをそのまま食べるのは難しいけど、ジュースにすれば飲めるんだって
こんな風に、価値観の裏には必ず歴史がある
違う価値観を持つ人との歩み寄りに困ったときは、「なぜ」にヒントがあるんだとか
言語の壁があってもあきらめる必要はないらしい
多様性ってこういうことらしい
だから、最近の価値観についていけなくてもいいんだよ~
おじさんはおじさんでいいんだよ
スマホが使えなくても缶切りが使えなくてもそれが当たり前~
生きてきた時代が違うからね
ところで、りんごはどんなふうに食べるのが好きですか
私はアップルパイです
あなたはどうですか?
おわり
ノクチルのコミュ読んで思ったこと
自分の中にある世界は自分にしか見えないので
他の人と全く同じ景色を見ることはできません
共感はできても、同じになることはできません
その人のすべてを理解することはできません
たとえ理解したように思えたとしても、それはその人の一部分にしかすぎません
それか、わかった気になっているだけです
理想というレンズを通して誰かを観ると、その人の本質を見失います
その人がアウトプットしたものにしか興味がなくなります
その人の奥にいる自分にしか目がいかなくなります
つまり唯一無二の価値があるということです
だからこそ尊重しなければなりません
同じになれないから孤独なのではありません
誰からも価値を認めてもらえないから孤独なのです
どうか「その人らしさ」が大切にされますように