大学生の日記

主に体調や精神状態の記録をしていましたが、今は関係ないことしか書いてません。オタクネット民大学生です。

自分の感受性くらい自分で守れ

「自分の感受性くらい」という詩を初めて読んだ。

茨木のり子による作品で、どうやら教科書で誰しも1度は目にする名前と作品らしい。

が、現代国語とは適当に向き合っていたためか、恥ずかしながらどちらも聞いたことがなかった。

 

この作品は、全編において叱咤するような言葉遣いが用いられているのが特徴だ。

最後は「ばかものよ」なんて言われてしまう。

しかし、この詩は作者が戦時中に感じていた疑問、そこから戦後に得た気づきより生まれたものであり、すべての言葉は作者自身にも向けられていることが読み取れる。

 

もし、私が思春期の時分にこの詩と出会っていたのならば、「うるせえババア!」と教科書を投げていたことは想像に容易い。

匿名掲示板やSNSでも、「なぜ今まで自分が積み上げてきたものを責められなければならないのか」と、この詩を嫌う意見が散見された。

確かにこの詩には、目をそむけていた自分自身と向き合わされるような、自責的で背筋の伸びる思いをさせられる人も多いのだろう。

しかし、私が初めて一読したときに感じたのは希望だった。

 

特に強く感じたのは、第6連の表現からである。

自分の感受性ぐらい

自分で守れ

ばかものよ

「自分の感受性くらい自分で守れ」と言えるならば、「自分の感受性は自分で守り抜くことができる」とも言えるのではないだろうか。

どれだけ周囲が侵入を試みようとしても、守り抜く意志さえあれば制圧されることはない。

仮に占拠されてしまったとしても、自分の意志次第でもう一度奪還することができる。

「ぱさぱさに乾いていく心」も

「気難しくなってきた」のも

「苛立つ」のも

「初心消えかかる」のも

「駄目なこと」も

自分以外の何者かによって理不尽に強制され、為す術なく受け入れざるを得ないなんてことはなく

本来の自分像を実現するための、あるいは戻るための道は、きちんと探せば常に開かれている

そのような希望を感じた。

 

他人に感受性を乗っ取られてはいけない。

この詩は、問題を抱えながらも生き抜くための「お守り」になり得るのではないかと考える。

 

今朝この詩を読み感銘を受けていたところ、観ようと思っていたラヴィット!のことをすっかり忘れてしまった。

一部は見逃し配信されているのものの、全編を通しての視聴する術はない。

こればかりはどうしようもないので、作品の素晴らしさのせいにしておく。

 

おわり

 

 

引用:茨木のり子:自分の感受性ぐらい